時刻は朝九時ごろだったと思います。長男が国民学校の六年生だったので、それを送り出して、やっと朝の支度が終わった頃でしたから。
家には七歳、五歳、二歳の娘三人がいました。
空襲が、敵機がきょう来るかあす来るかといったうわさや、ささやきがずっと以前から流れていただけに、毎日が命の縮む思いでした。ご存じのように大分の航空隊が目と鼻のところでしょう。道一つ隔てて岩田の航空廠(しょう)があります。だからこの周辺には、民宿の海軍さんや、合宿の隊員さんたちがかなり居られたわけです。
その朝、男の子を送り出して間もなく「それっ来た。敵機だっ」という騒ぎになって、二人の娘をかき抱いて家の防空壕(ごう)に逃げ込みました。このいやな気持ちはたとえようがありません。それに長女がいないのです。母娘が抱き合って、この狭いお粗末な穴の中で息をひそめていますと、これがこのまま母娘の墓穴になるのではなかろうかと思われます。
外は轟(ごう)音です。すさまじい轟音が空をふるわせながら近づいて来ます。この轟音の中から長女の顔が浮かんで来ます。長男には先生方がついているとして、長女はいったいどこでなにをしているのだろう。確かミカンを持って、だれかと天神様の方へ出かけたはずだが。胸の中が不安で苦しくなります。
爆音が始まりました。まるで落雷の音そっくり。バリバリと裂けるかと思うと、ドロドロと地軸をゆるがせます。
それにしても、この恐怖にじっと耐えながら、抗議の一言も持って行き場がないということはおかしいと思います。
やがて、やっとあたりが静かになりました。時間や敵機の数などとんとわかりません。世の中が死んだようにシーンとなり、昼間、こんな静かな集落を見たことがありません。
すると、「やられちょる、やられちょる。人がやられちょる」「どこで?」「お宮の近くでやられちょる」という声。
お宮、天神様と聞いてとび出しました。「まさか」すぐに長女の身の上に結びつけて考えます。
気がついたとき、あたしも中の娘を引きずるように、お宮の方へ走っていました。
すると間もなく、四、五人の男衆が、べっとり血に染まった戸板を囲んで、こちらに向かって来るのに出会いました。戸板に乗っているのは、モンペが引き裂け、血まみれになった若い女性の姿です。あたしは思わず顔をそむけました。
すると、そのあとから長女が泣きながら歩いて来るではありませんか。両手にはミカンを持ったままです。それを見て、急に力が抜けてへナヘナと道端にかがみ込んでしまいました。
すがりつく娘をいたわりながら、一方では遠ざかる戸板にそっと手を合わせました。そのご婦人は当時、知事さんの秘書役をされていた方の娘さんでした。
空襲が解けると不思議な静けさが訪れましたが、それもほんのひととき、見る間に辻(つじ)や角に集まった人たちでハチの巣をつついたような騒ぎになりました。
グラマンとかボーイングとかの言葉も出て、グラマンが来たんだから、この近海に迫った空母からとび立ったのに違いなかろう。そんなら次の空襲もあるぞ。家庭でつくった防空壕なんか役に立たないという恐ろしい話です。
(1973年本紙連載企画「大分の空襲」を再掲。原文を一部修正、省略しています)