決して体格には恵まれていなかった。しかし、錦織には、それを補って余りある強烈なリターンや、硬軟織り交ぜた絶妙なショットを支える俊敏さを持っていた。「フットワークという武器がある」との自負を胸に長く世界のトップ選手たちに対抗してきた。
13歳で米フロリダ州の名門アカデミーにテニス留学した。2008年には松岡修造に続く日本男子2人目のツアー優勝を果たした。着々と地力を付けると、14年の全米オープンでは日本勢初の四大大会シングルス決勝進出の快挙を達成。15年には日本男子では今でも最高位の世界ランク4位となり、次々と競技の歴史を塗り替えていった。
跳び上がって打つ代名詞の「エア・ケイ」に象徴されるように、華やかさを兼ね備えた。その半面、コートを駆け回り全身全霊でポイントをもぎ取るスタイルは負担が大きかった。キャリア終盤はけがに苦しんで世界ランクは大幅に低下し、最近は下部大会でのプレーを余儀なくされた。「情熱がなくなって辞めることは多分ない。辞めるとしたら体がもう限界だなと感じたとき」と語っていた。