猛攻生き延び、消せぬ記憶

1945年6月9日の熱田空襲を振り返る柘植弘子さん

 太平洋戦争末期、米軍の激しい爆撃で2千人以上が亡くなった名古屋市の熱田空襲から9日で81年。生き延びた柘植弘子さん(95)=熱田区=は「ただただ、生きることに必死だった」と振り返る。遺体であふれた川、焦げた臭い、「水をくれ」とうめく声―。同級生35人の命も奪われた。凄惨な光景は今も脳裏に焼き付いたままだ。「二度と繰り返さないよう、戦争の恐ろしさを知ってほしい」と訴えている。

 わずか8分間の出来事だった。晴天の1945年6月9日午前、空襲警報が聞こえて見上げた空は多くの爆撃機に覆われ、まるで曇天のようだった。米軍は軍用機などを製造する工場を空爆。柘植さんは数キロ離れた知人宅にいた。避難した防空壕が爆撃で崩れ、生き埋めになった。

 「怖くて怖くてたまらなくて、声を上げ続けた」。救助されると、軍需工場で大きな被害があったと聞いた。多くの友人が勤めており、居ても立ってもいられなくなった。無事を確認したい一心で、血が流れた脚を引きずりながら歩いた。

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