日本新聞協会と全国の会員新聞・通信・放送社は、4月6日に始まる「春の新聞週間」に合わせ、朝井リョウさん(作家)、大友花恋さん(俳優)にインタビューした。新聞との付き合い方、情報収集の工夫などについて聞いた。
―最新作「イン・ザ・メガチャーチ」(日本経済新聞出版)には自分の信じた物語に没入することで、あえて視野を狭めようとする人々が登場します。そうした意識的な没入によって自己防衛をしつつも、同時に実践的な行動力を手に入れるという姿が描かれています。かたや新聞は、直視したくないものも含め現実を見つめるための情報源であり、我に返らせ視野を広くさせる存在かと思います。朝井さんはメディア、とりわけ新聞の役割についてどうお考えになりますか。
最近、宗教学者の柳澤田実さんと対談する機会があり、資本主義が全てを覆うような今だからこそ、宗教が大事になっているというお話に興味を覚えました。宗教においては、祈りをささげるという無料の行為が救済や癒やしにつながりうる。でも、3万円払ったらその祈りが届きますよとなったら、それは本来別次元であるはずの資本主義にからめ捕られたことになってしまう。「イン・ザ・メガチャーチ」ではファンダム(熱狂的なファンのコミュニティー)を取り上げました。私自身、ファンダム自体は大切だと考えていますが、経済的要素の接続でゆがむ部分が多いと感じます。
情報に関しても同様のことが言えるのではないでしょうか。就活に関してインタビューを受けることもありますが、今の世の中に関する情報をどうやって調べますかといった話になる。私が今就活生だったら、やはり無料で見られるネット情報に頼ってしまうと思います。ただ、それらの情報はいかにインプレッション(表示回数)を増やし、それに伴ってどれだけお金を集められるかを重視して発信されているものも多い。そう考えると量こそ膨大かもしれないが、実は似た形の情報が流れていることになる。だからこそ家族や身近にいる大人の話、つまりインプレッションから離れた場所にある情報、別の種類の情報に触れることも大切だと感じています。
新聞社も企業なので収益はもちろん大事ですが、多くのメディアがインプレッションをいかに増やすかを目的とする中で、新聞は別の判断基準で情報発信している印象を持っています。その判断基準は何かといえば、専門家がその専門のことを話すということではないでしょうか。(専門知が軽視されるようになるなど)世の中はいろいろ変わるかもしれないが、新聞はその役割を変わらず果たしていってほしいと思っています。
―朝井さんは複数の新聞の社説を読み比べ、関心のある話題を箇条書きでメモしていたそうですね。
私の学生時代は文章を勉強するに当たっては、「情報が整理され、きちんとした文章で書かれている社説」が役立つと言われ、社会人になってもしばらく6紙の社説を読み比べていました。他は全紙取り上げているのに、その新聞だけは取り上げていないトピックスもあり、それぞれの新聞が大切にしていることが分かって興味深かったです。連載漫画を読んでいる感覚に近いかもしれません。最初はよく分からない話題でも、ずっと読み続けていると理解できるようになる。「世界」という物語の最新話を毎日読んでいるような感覚がありました。
新聞は網羅的なのが特長だと思いますので、読むときには自分の好みは出さないようにしています。できるかどうかは別にして、自分好みの情報を表示するアルゴリズム(計算手法)からは可能な限り遠ざかりたい。同じ町を歩いたとしても、身長150センチの人と190センチの人では入ってくる情報が異なる。小説を書くという仕事をしていることもあり、自分とは違う人がどんな情報を得ているのかには興味があります。実際、海外の映画やドラマを作るに当たっては大勢の人々がチェックするかたちが割とスタンダードになっているとの話を聞きます。一方で一人の作家の強烈な思い込みが良い小説を生むようにも思う。私は一人でやってきましたが、どちらが良いかの答えは出ていません。
―以前のインタビューでは、効率や利益を優先する「コスパ主義」のような考え方には反対とおっしゃっていました。
私は早稲田大学文化構想学部に行きましたが、入学試験の科目は英語、国語、地歴公民でした。私立大学の文系学部を受験するならこの3科目以外捨ててOKという考え方がありますが、私は結局、独自問題で難しいと言われる地歴をセンター試験の数学と取り換えることで合格できました。もともと早稲田と国立大学を目指していたからではありますが、数学を切り捨てずにいたことで学びたい教授のいる大学に行けたというのは、効率追求だけが良いわけではないことを示す分かりやすい話かと思います。
効率主義は自分の価値判断をすごく信頼している人の意見だと感じます。私はいま36歳ですが、たとえば就職という大きな決断が迫られた22歳のときの判断基準なんてひどいものでした。だから効率主義に反対というより、自分の判断を信頼できないというほうが正しい。いつだって、“あれ”を切り捨てかねなかった過去の自分の反省とともに生きている。小説家は、他の選択肢を切り捨てないまま目指せる職業という意味でも天職です。
―朝井さんが効率にとらわれず、さまざまなことにチャレンジしてきた様子は、人気エッセー3部作からもうかがえます。その第1弾「時をかけるゆとり」(文春文庫)に、早稲田大学の名物行事「100キロハイク」に参加したときの様子が書かれています。歩き疲れた初日の夜、「『メディア・リテラシーについて専門家と意見交換をする』という残念な夢を見た」とあります。当時からメディア情報の信頼性を考える機会はあったのでしょうか。
あの一節は出来事の緩急による面白さを目指したものなので深い意味はないのですが、メディアの信頼性について述べるなら、自分の考え方と異なる意見をできるだけ見るようにしています。週刊誌などに載せるべきではないだろうと自分が思った記事が載ったときでも、「表現の自由のためにああいったものも必要だ」といった反対の意見に意識的に触れ、その上で自分はどう考えるのかを判断する。自分への信頼が低いだけかもしれませんが。
―冒頭の質問に重なる部分はありますが、新聞は泥臭く事実を積み上げていることをどうすれば分かってもらえるか、頭を悩ませています。「メディアは真実を伝えない」と信じる人たちとの分断を解消するのは簡単ではないと思いますが、メディア、とりわけ新聞ができること、やるべきことについて、朝井さんのお考えをお聞かせください。
新聞に書いていることがすべて正しいわけではないというのは受け手として一つのあり方ですが、新聞だからウソを書いているというのは物事を単純化しすぎていますよね。そういう風にとらえてしまうアルゴリズムがその人にあるのでしょう。そうなるとやはり新聞は裏をとって記事を載せていくしかない。あとは前述したようにインプレッション重視ではない姿勢を貫くことでしょうか。例えば釣り見出しのようなものは付けない。新聞だからこそ言葉を一番大事にしてほしい。一方で読まれやすい時期に発信するといった工夫は必要かなとも思います。
どんなに時代が動いたとしても、いかりを下ろしているような信頼感が新聞記事には求められます。しっかりいかりを下ろしていますというアピールはもっとあっていいように思われます。
あさい・りょう 1989年生まれ。岐阜県出身。2009年、「桐島、部活やめるってよ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年、「何者」(新潮社)で直木賞を、21年、「正欲」(同)で柴田錬三郎賞を受賞。25年、ファンダム経済を舞台に人間の行動力を描いた「イン・ザ・メガチャーチ」(日本経済新聞出版)が発売された。
この記事は春の新聞週間に合わせて、日本新聞協会の会員新聞・通信・放送社が共同制作したものです。