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東山文化表す二層楼閣 第1章「守護大名大友親繁の館」

 大分市顕徳町で戦国大名大友氏の館の遺構が発見されて、20年がたちました。この節目の年を意識して、文献史学と考古学を専攻する全国の研究者が、これまでの発掘調査の軌跡と大友氏の権力構造解明に関する学際的研究の到達点を大名居館論、権力論、領国論の三つの論点から検討した論文集「戦国大名大友氏の館と権力」を共同執筆しました。
 書籍(A5判、342ページ)は、老舗出版社「吉川弘文館」(東京都文京区)が発行して全国で販売が始まりました。また、優れた学術書と評価され、日本学術振興会の科学研究費補助金の採択を受けました。
 中世という時代(13~16世紀)に、積極的に海外との交易を行い、繁栄を極めた大友氏の実像がどこまで明らかになったのか。全国が注目する「大友時代」について最新の研究成果を執筆者16人のリレーで紹介します。 

 豊後府内の大友氏館は、どのような構造だったのでしょうか。戦国期(16世紀)の実態は随分と明らかになってきましたが、守護大名期(15世紀)については、ほとんど解明されていません。
 そもそも、守護大名期の代表的な当主である大友親繁(ちかしげ)の下、その治世当初の15世紀半ばまでの館は、かやぶき・竹敷きの質素な邸宅として、その純朴さが京都の五山僧にまで知れ渡っていました。その後、南北朝時代以来7代・100年にわたって続く両統迭立(てつりつ)による不安定な家督相続慣例を脱した親繁は、文明8(1476)年4月に家督を直系嫡男の政親(まさちか)に継承させることに成功します。時に政権円熟期を迎えていた親繁は、この「御一家御祝儀」を機に、政親名義の新しい守護大名館の建設に取り掛かりました。
 注目されるのは、大友家の惣大工寿彭(じゅほう)が記した「木砕之注文(きくだきのちゅうもん)」という木割書の記述です。「御屋形御主殿御二皆作」「御二皆ノ御主殿寸」の表現から、同年に親繁・政親父子が建てたこの主殿が「御二皆作(おにかいづくり)」(2階建て)だったと分かるのです。
 15世紀後半の守護大名館の主殿が2階建てだった前例はありません。しかしながら、大友親繁・政親父子が莫大(ばくだい)な進物を贈って密接な関係を維持した前将軍足利義政の手になる二層構造建築物、京都の慈照寺観音殿(銀閣)の上棟が長享3(1489)年で、大友館主殿上棟の13年後に当たります。親繁の館は、床面は「板敷(いたじき)」で、「しやうし(障子)さい立」(敷居の溝の両縁に「さい」(付樋端(つけひばた))と呼ぶ細木を作り付けて明障子(あかりしょうじ)をはめ込んだ仕組み)の間仕切りを有した構造です。東山文化の書院造りの様式を取り込む二層楼閣建築として、のちの銀閣に先立って建立されたと推測することもできるでしょう。
 無論、その造営を可能としたのは、領内産出の硫黄鉱石資源を輸出原資として遣明船貿易を手掛け、幕府中枢に610貫文もの献上をしても余りある中国銭を保有していた大友親繁の莫大な財力に他なりません。
 「木砕之注文」が証する文明8年の大名館主殿の二層楼閣普請は、この政権円熟期を迎えた65歳の親繁から32歳の嫡男政親への家督継承を寿(ことほ)ぐ「御一家御祝儀」として催行された造営事業です。それは日明貿易で得た潤沢な資産を背景に東山文化の建築様式を具現化する守護大名館の建設だったとも言えるのです。
(鹿毛敏夫・名古屋学院大学教授)
※この記事は、11月10日大分合同新聞朝刊19ページに掲載されています。
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