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1707年の臼杵藩津波記録発見 南海トラフ地震の「警鐘に」

大分大名誉教授の神戸輝夫さん

 南海トラフを震源とした1707年の宝永地震で臼杵藩を襲った津波の被害を伝える記録が見つかった。同藩士が記し、避難の様子などを生々しく記述。30年以内に70~80%の確率で起きるとされる南海トラフ地震への備えが叫ばれる中、識者は歴史に学べる貴重な資料と評価。発見した大分大名誉教授の神戸輝夫さん(80)=中国史、大分市雄城台中央=は「警鐘を鳴らす文献になれば」と話す。
 文書は藩大名屋敷の管理などをしていた吉田正敦(1649~1727年)の「大潮記」。神戸さんは数年前、吉田(臥龍)と息子正賢の漢文や漢詩を子孫がまとめた「臥龍正賢(がりゅうせいけん)両先生遺稿」(1928年)を購入。今年、吉田を学ぶため目を通していた際、その中から見つけた。
 宝永地震はマグニチュード8・4(推定)で日本最大級の震災。県内は大分、佐伯などで震度5~6の揺れが起き、別府湾、臼杵湾、佐伯湾に津波が押し寄せたとされる。
 神戸さんの訳によると、文章は「宝永4年の冬、10月4日午の上の時刻(正午ごろ)、豊後の臼杵に地震があった」から始まる。その後、「東の海の方から大砲が鳴るような音が聞こえた。突然、波が押し寄せてきた」という。
 「その速さは疾走する馬のようで、海の色は濃い墨のようだった。波の高さは山のようで一瞬の間に陸地に乗り上げてきた」と津波の脅威を表現している。
 武家屋敷の1階は高さ3、4尺(1尺は約30センチ)まで水没し「庭では人の背丈以上になった」と記録。「各郷村の人々は子どもを背負って必死に逃げまどい、その悲鳴は天にまで届くほどであった。(中略)人々の多くが高台を目指して逃げ、月桂寺などの僧坊に避難した。城内に逃げ込んだ人もいた」
 藩内を巡視していた吉田が翌日、自宅に戻ってみると、塀は崩れ、屋敷の損壊も大きかった。床にたまった泥は5、6寸(1寸は約3センチ)もあった。
 津波は民衆に恐怖心を植え付けた。「人々は再来を恐れ誰も安心して暮らすことができず、山に近い所に住み城下町には空き家が目立った」。藩では津波を監視する「候潮官」を配置したという。
 災害史を研究する日出町歴史資料館・帆足万里記念館の平井義人館長(64)は「初めて見る貴重な資料」と指摘。他にも臼杵藩の役人が残した記録はあるが「今回の資料は被災当時の描写があり、避難行動に生かせるのでは」と期待した。
 神戸さんは「資料を現代の人も『安心していてはいけない』というメッセージとして受け止めなければ」と話している。

<メモ>
 政府の地震調査研究推進本部によると、南海トラフを震源とする大地震は100~200年程度の間隔で起きている。宝永地震後は1854年、1944年、46年に発生した。
※この記事は、6月26日大分合同新聞朝刊21ページに掲載されています。
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