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惨劇風化させぬ 大分大空襲から65年

[2010年07月16日 09:47]

資料を手に65年前の大分大空襲を振り返る木村譲さん=14日、大分市府内町

 大分市街地が一面焼け野原となった1945年の「大分大空襲」から、16日でちょうど65年。米軍のB29編隊が襲来、一晩で約6千発の焼夷(しょうい)弾が投下された。戦争の悲惨な記憶が風化しつつある中、空襲体験者は「語り継いでいかなければ」との思いを強くしている。

 大分市府内町のスポーツ用品店「スポーツキムラヤ」の会長、木村譲さん(82)。空襲警報のサイレンで跳び起きたのは、7月16日深夜だった。当時は大分中学校(現在の大分上野丘高校)の4年生。父親は徴用され、母親と2人で中央通りにあった自宅に住んでいた。
 「ついに来た」。鉄かぶとをかぶって外に出た。頭上にはB29。母親に「中学校へ逃げて。後から行く」と告げ、メガホンで近所に米軍の来襲を知らせた。「ザー」という焼夷弾の落下音。近くの大分合同銀行(現在の大分銀行赤レンガ館)前の防空壕(ごう)に走り込んだ。
 さく裂音と同時に、空が明るくなった。銀行に弾が当たり、火花が散った。「あと数十センチずれていたら、防空壕を直撃して命はなかった」。防火用水を頭からかぶって中学校の方へ逃げたが、服に付いた火花がなかなか消えなかった。
 踏切では避難する人たちが立ち往生していた。その中に母親もいた。遮断機がずっと下りたままだという。「軍事品を運ぶ機関車が優先で、人間は無視されていた」。何とか遮断機をくぐって中学校に着いた。
 校舎は当時、病院になっており、やけどをした母親らが手当てを受けた。木村さんは校長と、昭和天皇、皇后の御真影と教育勅語を校庭の防空壕へ運んだ。「地べたに置くわけにはいかない」と、抱えたまま数時間、警報の解除を待った。
 空襲は終戦まで続き、いとこを亡くした。それから65年。学校などで自身の体験を話してきたが、戦争への関心が薄い世代が増えていると実感している。「戦争とは何だったのか。今、語り継いでおかなければ」

 大分市であすから講演やパネル展示
 「大分大空襲65年と現代の戦争犯罪を問う」をテーマにした「平和のための戦争展in大分」が17、18の両日、大分市で開かれる。
 17日は午後6時半から、市コンパルホールで。慶応大学の松村高夫名誉教授が「現代の戦争犯罪と731部隊」と題し講演。県内の合唱団が混声合唱組曲「悪魔の飽食」を披露する。入場無料。
 18日は午前10時~午後4時、ガレリア竹町ドーム広場で。大分大空襲などのパネル展示やミニコンサート、フリーマーケットがある。
 問い合わせは実行委員会事務局(TEL090・2087・1186)。

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