幕末・維新をテーマにした小説でも、その観察力と分析力、表現力において司馬遼太郎氏は出色といわれる。司馬氏イコール日本史というのが歴史ファンの常識になっている。もちろん、筆者も熱烈な司馬ファンの一人だが「大分と坂本竜馬」に関してだけは、司馬氏に一言、申し上げたい。
竜馬は、馬関戦争で長州藩に対する英米仏蘭の報復攻撃をやめさせるという幕命を帯びた勝海舟(幕府軍艦奉行)に伴われて1864(文久4)年2月14日、船で兵庫を出発。瀬戸内海を航行し翌15日午後、豊後の佐賀関に上陸するのである。一行は近くの「徳応寺」に宿泊。徒歩で鶴崎から野津原、久住を結ぶ豊後街道を通り、目的地の長崎に向かう。長崎からの帰りも同じコースをたどり4月11日(元治に改元)、佐賀関を出港している。以上は「勝海舟日記」によるが、小説「勝海舟」(子母沢寛)「龍馬」(津本陽)は、この海舟日記に沿った記述をしている。
そして最近分かったことだが、徳応寺の当時の住職龍潭(りゅうたん)が書いた「日本人物誌」の宿泊者名簿の中には何と、墨痕も鮮やかに「坂本龍馬」の名が記してあるのだ。
ところが、竜馬好きなら誰もが読んでいる司馬氏の小説「龍馬がゆく」では、一行は船で関門海峡を通って(佐賀の)伊万里湾に入ったとしてある。徹底的に歴史資料を調査し、現地にも足を運んだという司馬氏の調査不足か、はたまた勘違いとしか思えないのだ。竜馬が大分に来たことを知る県民が少ないのは、そのせいではないかと、ほぞをかむ思いである。
若い竜馬がこの旅の中で、勝の指示により開国通商を説いていた熊本の横井小楠を2度訪れた。当時、勝の海軍塾塾頭として全国を渡り歩き自信満々だった竜馬を、小楠は自分の苦い経験から心配した。「幕府に乱臣賊子(らんしんぞくし・危険分子)とみなされないように注意しなさい」と。
小楠の忠告を聞いた竜馬は何を思い、考えながら、豊後街道を引き返したのであろう。京都で暗殺される4年前のことであった。
(編集局次長兼文化科学部長・清原保雄)
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